横顔

 

ひとりでも落ち着かなく感じたら、居心地のいい場所ではない、とこのような言葉を、ずっと前に由貴さんが大学のゼミのメーリングリストの中で、書いた。

 

おそらく、この発言は、当時の、いかに誰でも参加可能な議論の場をつくりあげるのかという文脈において、あくまで、本人のごくごく本能的な反応だったと思う。

それでも、それは、わたしが由貴さんという人物を感じ得た、決定的な言葉だったのに違いない。

つまり、とことん細部にこだわり続けようとする、勇敢なところの持ち主だ。

由貴さんは。

 

他方、一見すると自己と他者との関係を表す言葉ではあるが、由貴さんが語ろうとしているのは、ひとつでも、不調和音があれば、クリエイターではない、ということだ。

要するに、クリエイティブな活動そのものは、必ず作り手それ自身が、完全に自分自身である瞬間に息づいている状態でなければならないというテーゼを、由貴 さんは魂の深い深いところで了承している。

 

だから、でもないが、つい最近、というのは、氷点下の正月の夜で山奥の小屋で彼女と占いについて語り合 い、何度か神戸や大阪での彼女のライブへ足を運び、幸か不幸か、やっと大学の籍を外せた私が、また彼女 のおかげで、大学にある小さな席をいただいた、という長い最近、あるいは、論文という言葉を通した表現 の心要性に相反する身体という別の語り手がもたらす一種の脱構築性に、ひどく悩まされつつも、ようやく 素晴らしい音を奏でる仲間たちと共に、このアルバムを世に届けられるようになった、本当の最近、彼女は、 もしかしたら、私にもっと合う表現は歌でも、ピアノでもなく、絵画かもしれない、と嬉しげに語った。

 

そして、そこで見せられたそれらの水彩の点と線たちは、実に調和されていて、美しい。

 

再び由貴さんに教わった気がした。

 

そもそも、言葉や音や色彩などは、鑑賞者に、相手に、みんなに、届けたときにしかいきてこない、というような、馬鹿げたルールは、真のアーティストにとって、まったく無効なルールなのだ。

 

なぜなら、それ以前に、言葉も音も色形も、自分らの、それぞれの居心地のいい場所があるはずからだ。アーティストは言葉と音と色彩とを、落ち着かせる媒介者にしかすぎない。

 

確かに、これまで、ただいま、これから、懸命に創ってきた、創っている、創ろうとしている、ありとあらゆる、由貴さんの表現たちは、それぞれの居心地のいい場所を目指しているからこそ、輝いている。

 

虹色の小舟を浮かばせて、 

すでに広がりつつある海のなかで、 

ふと目覚めたときの夢にある、明日へ向かう、 

彼女の妥協しない姿は、

相も変わらず。

 

 

沈恬恬(しん・てんてん) 

 

2016年9月24日

 

 

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